「自由」って、なんとなく感性やひらめきに任せたものだと思われがちだけど、
実はその裏には、丁寧に仕込まれた構造がある。
お花をいけるという行為の中に、それをふと感じた週末のこと。
暮らしと感性、そしてマーケティングの共通点を考えてみたくなった。
ある夏の週末の午後。雨の予報だったけれど、曇り空のまま、傘はいらなかった。しっとりした空気の中、ゆるく風が吹いていて、「あ、今日はお花をいけるのにちょうどいいかも」と思った。
花をいけるには、実はこういう天気がぴったりだ。からっと晴れた日よりも、曇り空で少し湿度がある日。空気がやわらかくて、花も人も落ち着く気がする。茎や葉も乾きにくく、空気のやさしさを感じる。
肌にとっても、こうした適度な湿度はありがたい。雨が降ったから畑の水やりは不要だけれど、あの豪雨は大丈夫だったかな……と気になる。「恵みの雨」とはいうけれど、自然のバランスはいつも繊細だ。曇り空とはいえ、日焼け止めは欠かせないし、涼しいうちに床掃除をすませた。そんな“整える時間”が、花をいける準備にもなる気がする。
教室に入ると、先生がたくさんの花材を用意してくださっていた。
その中で、目を引いたのがグロリオサ。
赤と黄色が炎のように混ざり合う、夏の主役みたいな花。
以前の展示会でも、この花を使いたいと思った。
でも直前になって手に入らなくなり、都内のお花屋さんをいくつも回りました。
電車に乗って大きな店舗まで行ったけれど見つからず、3軒目、ようやく近所の花屋さんで出会えた。
そのご主人は「グロリオサ好きなんですよ。いつも仕入れてるんです」と言ってくれて。
見つけたときのうれしさと安堵感は、今も忘れられない。
幸せの青い鳥とはちょっと違うけれど、遠くばかり探していたら、実はすぐ近くにあったのかもしれない。
それに気づかせてくれた出来事だった。
花って、色や形だけじゃなくて、そのときの空気や気持ちまで一緒に記憶されるものなんだなと、改めて思った。
お花をいける作業って、実はかなり構造的。
長さ、角度、配置……針金で花の向きを調整したり、枝を思い通りのラインに整えたり。
そのひとつひとつに“仕込み”がある。
さらにベテランになると、大枝を固定するためにドリルで穴を開け、ネジや針金でしっかり留めることもある。
私はまだその領域には届かないけれど、そういう“見えない構造”を知っていくうちに、花を見る目が変わってきた。
ふと気づいた。
これは、花だけに限らない。
ビジネスでも、SNSでも、ブランドづくりでも同じことがいえる。
たとえば「自然体に見えるSNS投稿」は、実はとても緻密に設計されている。
自然光の取り方、文章の長さ、言葉のトーン──
すべてが“あえての自然”として組み立てられている。
ナチュラルに見えるブランドやライフスタイルが、実はどれほど計算されているか。
そこには「自由」のように見える構造がある。
マーケティングにおいても、「型」の先にあるのが創造性。
感性って、なんとなくのひらめきじゃなくて、土台をつくった先にあるものなのかもしれない。
いけ終わったあと、ただ自分の花を眺める時間が好き。
近づいて、離れて、ちょっと直して、また眺める。
それだけで、ふしぎと自分の中の“ゆるみ”が戻ってくる気がする。
感性って言葉はちょっと敷居が高いようにも感じるけれど、
たとえば、朝の掃除や日焼け止めを塗るその丁寧さに宿るものかもしれない。
花と向き合う時間は、
きっと、自分の感性を信じるための、小さな訓練なんだと思う。
次回は、もう少し学んだ立花について詳しく書いていくか
「探すのことの価値」「仕込み→ブランド戦略、演出、料理」の共通点について書いていきたいと思います。